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わが郷土史
中六人部公民館 編集
< 目次 >
一、六人部庄とわが郷土の歴史をさぐる >> 読む
わが郷土の歴史 >> 読む
◎宮村 >> 読む
◎大内村 >> 読む
◎堀殿屋敷跡 >> 読む
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お断り
原文縦書きをここでは横書き表記するにあたり、「右」を「上」に、一部漢数字をアラビア数字に変更してあります。
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一、六人部庄とわが郷土の歴史をさぐる
古代の天田軍六人部郷(和名抄)に立荘された荘園で、福知山市の東南部、土師川流域の六人部谷一帯に比定される。
六人部庄の初見は大治三年(1128)六月付平資基屋地度状(九条家文書)で、資基が父資孝から相伝した所領の一つとして「丹波国六人部御庄」があげられ、この時資基から「信濃守殿」に譲られている。次いで荘名が見えるのは、寿永三年(1184)四月付源頼朝下文案で、平家没官領のうち、平頼盛(池大納言)の知行地は頼朝と頼盛の母池禅尼との特別な関係から頼盛に返されたが、その一つに「八条院御領」六人部庄が含まれていた。下って嘉元四年(1306)の昭慶門院御領目録には「庁分」の項に入れるが「丹波国六人部庄」と記される。
これらによれば、六人部庄は皇室領(八条院領)で鳥羽天皇皇女八条院(暲子内親王)が承安四年(1174)仁和寺(現京都市)内に御願寺蓮華心<れんげしん>院を建立した際施入したものと思われ、以降大覚寺統の荘園として亀山天皇皇女昭慶門院に伝領されたと考えられる。
大覚寺統の荘園はこのあと、昭慶門院から兄後宇多天皇の皇子尊治親王(後醍醐天皇)に伝えられたが、六人部庄は亀山天皇皇子入道兵部卿守良親王(五辻宮)に譲られたらしく、嘉暦三年(1328)九月付五辻宮家領注文案に、宮分として、
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丹波国六人部庄内 |
大内村 |
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宮 村 |
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生野村 |
各皆除 |
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春富名 |
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同新庄内私市村 |
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行枝名 |
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五辻殿 |
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嘉暦参年九月二十七日汰弥飛円御判 |
とある。しかし元徳元年(1329)九月二十日付北条守時書状案に、
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備前国草部卿、丹波国六人部庄内三ヶ村(大内村、宮村、生野)同新庄内私市<きさいち>村行枝名、出雲国大田庄□五辻殿事、任去嘉暦三年九月二十一日御譲状、可有御領掌之由、可被申入一宮御方之旨候也、仍恐謹言
元徳元年九月廿日 相模守判
謹上 弁入道殿 |
とあって、六人部庄の三か村と同新庄私市村・行枝名が後深草天皇皇子式部卿久明親王の若宮(熙明親王)に譲られている。
御領職はその始まりは不明だが、平資孝―資基―「信濃守殿」、その後頼盛と伝領され、頼盛以後もその後嗣が引き継いだと考えられる。
南北朝期に入り六人部庄は天竜寺(京都市)領となるが、足利尊氏によって没収され天竜寺に寄進されたのであろう。
至徳四年(1387)閏五月二十一日付天竜寺領土貢注文には次のように記されている。
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天竜寺領土貢注文 |
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一、 |
六人部庄宮村方三ヶ村分
京進米弐佰拾壱斛伍斗肆升漆合
延伍拾弐斛玖斗伍合 一斗別二升五合宛
並弐佰陸拾肆斛肆斗伍升弐合 寺升定(中略) |
上の「宮村方三ヶ村」は宮村(枝村岩崎村を含む)・長田村(江戸時代の長田村・多保市村・岩間村)・大内村(同じく大内村・田野村)をさし、「生野方三ヶ村」は江戸時代の生野村・萩原村・上野村と思われる。「高津方三ヶ村」はもと六人部新庄であり、したがって行枝名のある下高津(江戸時代の観音寺村・興村・私市村および上高津(同じく高津村・現綾部市)をさすものであろう。(中略)
宮村・高津・生野からの寺納分は米約五九六石、銭貨約五九七貫にのぼり、一石を一貫とすると計一千二百近くになる。これは上土貢注文に記す天竜寺領の総収入のうち、米は約25パーセント、銭貨は約10.5パーセントを占め、当時の天竜寺経済の中で、六人部庄が重要な位置にあったことが知られる。(中略)
福知山市の六人部谷から天田郡三和町にかけての一帯を中世末―近世に六人部七箇と称し、単に六人部郷ともいった(丹波志)。
「丹波志」によれば全域を七村(庄)に大別し、そのうち三和町に当たる土師川上流域の四村を上四箇、現福知山市内の六人部谷三村を下三箇と称している。下三箇の三村とは、長田村(江戸時代の長田・多保市・岩間)・大内村(同じく大内・田野・宮)・生野村(同じく生野・三俣・堀越・正後寺・坂室・池田・上野・萩原の八村)をさした。また長田・大内の二村をさして「下二箇」などとも使った。(平凡社『京都府の地名』)
わが郷土の歴史
六部 ムトベ 今六人部と書く。宮主秘事口伝抄に六月三十日節折六人部云々。節折とは篠を以て聖上陛下の御身長を計り奉る典礼であるが、六人部から其篠を献じたものである。蓋し身度部<ミトリベ>の部の義である。姓氏録考証に六人部は三当部<ミトベ>と同音にて本は美斗倍と言ひけんと見える。尚姓氏録に六人部火明命五世孫武止目命之後也云々(火明命ノ御事福知山名所ニ出ヅ)山城乙訓郡府社向日神社々記に祠宮六人部氏は安毛建美命<アモタテミ>より出で世々祀事を奉す。
近古乱離の時に或は丹波六人部に退去す、蓋し基本土なりと。丹波志に六人部庄は往時七ヶ村の称ありて長田・大内・生野を下三箇といい、千束・川合・長谷(今細見)菟原を上四箇と呼たり。元禄中分れて二十七ヶ村となれりと。東鑑元暦元年の條に八条院御領、丹波六人部荘、後宇多院御領目録に蓮華心院領、丹波六人部荘など見えている。丹波志に小式部内侍の歌に由て名高き生野の里此内に在り。萩原に雲田という地あり。伝へいう天鈿女<アメノウズメ>命降宅の地にて雲田村のこと千載集主基所の歌に見ゆ云々。
◎宮村
土師川とその支流竹田川の合流点から、東方丸山までの地および土師川の対岸岩崎の地を含む。集落は岩崎のほか野間、仁田、島田に分れる。岩崎には京街道が通る。
宮の地名由来については「丹波志」に「古三輪明神ノ社ヲ建、依之此号有」とある。
仁田付近の水田から石斧二個が出土し、由良川を上った弥生文化の六人部谷での最先端を示すものと考えられている。また丸山の突端部にある一宮神社(三輪明神)の裏山には古墳がある。明治四十一年(1908)発掘され、青銅製の鈴・琥珀の切子玉・瑪瑙の曲玉・金銀環・管玉・直刀などが出土した。
古代には六部郷(和名抄)、中世には天竜寺領六人部庄の地。至徳四年(1387)閏五月二十一日付天竜寺領土貢注文(天竜寺文書)に「六人部庄宮村方三ヶ村分」として京進米二一一・五四七石、公事銭一七一貫一五五文が記される。「三ヶ村」は宮村・長田村(江戸時代の長田村・多保市村・岩間村)大内村(大内村・田野村)をさすと考えられている。その後の経緯は不明だが「蔭涼軒目録」文明十七年(1485)十二月八日条によれば宮村は大聖寺領となっており、代官は「貞蔵主」なる者であった。大聖寺は現京都市上京区に在る大聖寺か。同寺は臨済宗の尼寺で、開基は光厳天皇妃の無相定円禅尼。
江戸時代の宮村については「丹波志」に、「宮村支岩崎、仁田、嶋田、野間、綾部領、高五百三拾四石五斗六升、民家七拾四戸内岩崎二十八戸」とあり、また「岩崎高ハ宮村高ノ内弐百石綾部領」と記す。
村内に仁田和泉守の城跡があるが、仁田の字名と関係があるか。城跡と仁田氏について「丹波志」は「在家ヨリ廿間斗高キ山ニアリ、和泉守ハ長田村高橋ニ被討ト(中略)和泉守妻ハ大内村ニ逃ケ来リ、弁天ノ前ニテ被討、今ニ墓アリ」とし、和泉守墓については「田地ノ中一間四面ノ塚ナリ、此田ヲ和泉田ト字ス」と記す。また同書は井上佐渡の館跡があるといい、「田野村城主浅田甲斐守ニ被責討ル」「佐渡ノ墓ハ大内村ノ内医王山ト云所」とする。
岩崎には若宮八幡宮があり、「社地八十間四方古跡有故、近年祭之ト云レ」「民家ノ東十間斗上ル山中ナリ」(丹波志)とみえる。
宮村には当地の大庄屋を勤めた芦田家があり、「丹波志」に「芦田氏・宮村・次左衛門、宮村ヨリ細見谷迄綾部領拾六ケ村ノ大庄屋帯刀免許、今三代目ナリ」とみえる。同家の先祖は信州芦田庄(現長野県北佐久郡立科町)より来住したと伝えるが、丹波志の著者はこれを否定している。
当地には中世、塩見嶋田(嶋太)という地侍がいた。「丹波志」に、
地侍ナリ、嶋田ノ子市太夫、氏神ノ棟札ニ在(中略)嶋田ニ住ス(中略)旧栖壱丁四方斗、テ今嶋田ト伝、北ノ方端ニ東西凡三十間斗細キ藪有、古ノ堀土居有、嶋田殿ト称シ産神三輪ノ来社トス、近年嶋田大明神トシテ祭之(中略)是ハ天正ノ比、福智山辺ヨリ、塩見監物弟同五兵衛ト、弐人ニテ来リ、今ノ嶋田ト云処ハ島ニテ有シ所ヲ、田地ニ開住居ス、依之嶋田殿ト云。 |
とある。当地方では河辺の湿地を島という。塩見監物は「横山硯」ならびに塩見氏系図などによれば猪崎の城主である。
この嶋田は、土師川の池田堰を作る時功績があった。「丹波志」に次のようにみえる。
宮村古塩見嶋太ト云士アリ、亦池田村ニ池田殿ト云士住ケリ、聟舅トナリ住タリ、其頃宮村ノ田地水カカリ悪ク、池田ノ地ニ堰ヲ立テ、向ノ池田ノ岩ケ端ト云所ヨリ、一町巾四尺斗ノ溝ヲ穿、水ヲ引、堰ヲ宮井ト云フ、
宮村ハ水来ナレドモ、宮村ヲ水元トシテ、溝敷等出サス古例ナリ。
向池田ノ田中ノ溝ナレドモ、聟舅ノ間ニテ作置タリシ所ナリ、于今古例不違ト云フ。 |
上に記す古例は、宮村の田が十分灌漑されてから池田村の田へ水を引くという不文律として後世まで守られた。
◎大内村
由良川の支流土師川へ南方から竹田川が合流する所の南にあり、北から東にかけて宮村、西に田野村に接する。
北流する大内川の河谷を占め、その谷口に大内村の本村があり、谷奥部に大内山田、中間の本村寄りに後正寺の集落がある。
「和名抄」の六人部郷の中心地であったと考えられ、中世は六人部庄の地。
大内川の谷は、京街道の千束(現三和町)方面から土師川に沿わず西方へ通ずる間道として古くから利用された。しかし南方の峠越の道は複雑である。「丹波志」は「大内村、山田、綾部領」として次のように記す。
高五百弐拾七石弐斗七升 民家百有三拾戸 此所ニ堀上総進貞次居住ス 承和年中掻上城ヲ築 今旧址残レリ 大内村古ノ本村ナリ 宮村田野村大内ヨリ分村ナリ 又大内村南ニ大内山田ト云 谷凡三拾町 今半途ニ出戸三十戸(百三拾戸ノ内ナリ)本村産神此奥在 大内山田天神ノ奥ニ 凡八十年余以前宮村七郎兵衛ト云者 新ニ開地田トス 高弐拾七石 弐ッ五分ノ定免ナリ 于今免状別紙ニテ給フ
民家六戸有(百三拾戸ノ内ナリ) |
ここにみえる堀貞次は、大永年間(1521-28)の人で、伝えによれば先祖左京亮貞政は平城天皇の後胤で、承和年中(834-848)より大内村に住んだという。貞次は二十九代目といい、三十一代の時改姓して金谷を名乗り、堀金谷株といわれた。堀氏の本城が天正年中(1573-92)落城したため帰農したものであるという。「丹波志」編纂の頃その城跡は「堀殿屋敷」といわれている。
◎堀殿屋敷跡
大内の東部、標高100-130メートル、比高約25メートルの広い台地上にある。東西両面に開析谷があり、緩傾斜の地が数段の郭に仕切られ、その一角の櫓跡は明瞭な堀と土塁に囲まれている。
中世、六人部六大将の一に数えられていた堀氏の居城跡、文化年間(1804-18)の古城址見取図巻物に、
一古城 平の城 六人部ノ大内村 鎌足公三代後胤 藤原姓 弐□堀氏紀州熊野武士 仁王五十八代大和ニ住 仁王六十六代一条院ノ御宇 丹波桑田郡山国村大布施村住 府六田堀左京亮貞政 長久年中同国天田郡六人部大内村 城築平城号 凡三十代城主タリ 元亀三年堀金谷藤原広正 為□赤井ガ落城 古城大 古キ縄張 中奥(興)ノ軍法まい不叶屋敷所ト云フ |
とあり「丹波志」古城の部に、
一古城 古主堀 大内村 古城地平ヲ城ト云 古主堀上総進貞次(中略)本在西脇田地ニ古絹屋ノ古跡有 今ニ絹屋ト字ス 其続南ニ古城ノ矢ノ蔵古跡 今ニ矢ノ倉ト云 是ヨリ二丸裾迄四町斗 段々ニ卅間斗リ上リ 二ノ丸裾ヨリ二丸迄拾弐間上リ 二丸ヨリ本丸エ拾三間斗リ上リ 本丸ヨリ東ノ山裾迄平地ニ町次第ニ高シ(中略)本丸ヨリ四丁斗牛ノ方的場ト云 本丸ヨリ四丁半戌ノ方坂下金谷田ト云フハ 古城沼ノ跡也 |
とある。上記中の絹屋・矢ノ倉は、それぞれ現在も地名が残り、田地となっている。城跡は相当広い台地で、大正代(1912-26)までは原野であったが、第二次世界大戦前後に開墾され、十数年間揚水して水田化された。
的場は本丸より400メートル程東北にあり、本丸跡より西南の坂下に金谷田という小字がある。これは堀氏の支株(株とは同族集団をいう)金谷氏にちなんだものであろう。
◎田野村
由良川の支流土師川へ南方から竹田川が合流する付近の南にある。村内中央を土師川が横断し、村の南方から田野川が北流して竹田川に入る。集落は田野川の河口近くの口田野、上流部の田野山田、竹田川の対岸の笹場である。
村の東は大内村、北は岩間村、南は山を境にして氷上郡、西も同じ氷上郡に接する。
田野村はもと六人部七箇の大内村に含まれており、「丹波志」大内村の項に「宮村・田野村大内ヨリ分村ナリ」とある。田野村について同書は次のように記す。
田野村、支楽々葉、山田、柏原領、高三百五拾壱石 民家百廿戸内楽々葉五十戸 楽々葉ノ地ニ田ノ村高ノ内百石程在 入組有 又田野村ノ北ノ方ニヲノキ野ト云野有リ 此所ヨリ未申ノ方小坂ノ右ニ弐間斗林中ニ入リ 壱間四面ノ境塚在 氷上郡境石原村也 俗ニイノキ野トモ云 又田野村産神ノ森ノ中ヨリ左奥ニ 本道十五町斗 山田ト云出戸有 廿戸斗 |
田野村の産神は、古くから六人部郷の七ヶ所に祀られた七天神の一で、祭神は宇比地邇尊・寸比地邇尊。いつの頃からか菅原道真を祀るようになった。
安永-寛政(1772-1801)の頃庄屋を勤めた由良条右衛門の写書(安永二年)が残るが、田野村は柏原藩に属して福知山藩とは多少趣の変わった条目がある。
文中普請所とあるのは、河川や道路などの土木工営所であるが、収税・警備などにも関係した出張所であった。
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一 |
御未進年々重リ 若村高ニ割付候ハゝ 基所追払可申候事(中略) |
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一 |
御普請所牛馬つなき 竹木幷草刈取申間敷候 若我尽仕候者有之候ハゝ 為過怠其所之番三ヶ年可申付候事 |
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一 |
池水の義猥ニ仕間舗候 若無拠義モ有之候ハゝ村役人江申出指図を可受候 其儀茂不構猥いたし候ものハ 三箇年之内 右御普請所並ニ過怠可申付候事 |
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一 |
作方相荒候者ハ 其所追払可申候 |
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一 |
御他領之田地作リ仕申間敷事 |
笹場には中世浅田豊後守という者がいた。「丹波志」に「何国ノ人ナル哉 鎗ヲ能ク手練シタリ 大内村・宮村・長田村辺の士ヲ催 本村宇野(小野木)縫殿頭ノ城エ夜討シ取城ヲ豊後持鎗田野村吉見政右衛門江譲リテ今在」とある。
また同書に「宇野縫殿頭 子孫無之 宇野木野ト(云欠)所古跡也」とある。現在口田野の西南に西方に突き出した段丘があり、イノギ野又は福岡とよんでいる。「丹波志」はそこに「御居間屋敷ト云所有」とし、「本丸ノ跡ト云 今ハ畑ト成ル四方ニ堀有 辰巳の方平地 宇ノ木野陸也 本丸ヨリ一丁半斗南ニ氷上郡下竹田ノ内石原分山中 二十間斗堀切有字堀ト云」と記す。
笹場には小野木の家臣芦田源吾の子孫の家があり、芦田氏・浅田氏に限り板戸を用い、ほかは菰戸を用いた。また名字を許された者の特権として、父をトトサマ母をカカサマ(氏のない者は父をニイ、母をアマ)とよんだという。
(一)神社仏閣
◎一宮神社
土師川とその支流
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